日高連について

日本高齢者大会とは

日本高齢者大会の沿革

高齢者大会の前史

 日本の高齢期運動は、戦後の労働組合運動や社会保障運動をその源としています。しかし、諸外国に比べて大きく遅れていました。また同じ社会保障の運動の中でも医療運動などに比べて立ち遅れていました。

 そのような中、1958年に総評などの労働組合、社会党、共産党、日本生協連など民主団体が結集し中央社会保障推進協議会(中央社保協)が結成されました。

 翌1959年に国民年金法が成立し、1961年から国民年金保険料の徴収が始まりました。この年金制度は強制加入や滞納時の徴収などに問題があり、全国的な改善運動が起こりました。この国民年金闘争が高齢者運動の出発点の一つとなります。

 1963年に老人福祉法が制定され、全国に老人クラブが作られました。老人クラブの組織率は8割にものぼり、国や自治体から運営援助金が交付されました。

 一方で、自主的・民主的な老人クラブづくりが進められ、全日本自由労働組合(全日自労)が1964年に「第1回全国老人集会」を開催しました。さらに1967年には全日自労からの申し入れを受け、総評や中央社保協が中心になって「第1回高齢者中央集会」が開かれました。この集会には、43団体から1,500名が参加し、労働組合が国民的な課題で集会を開催した貴重な教訓として引き継がれ、以後4回開催されます。

 この時期には各地で国民健保の自己負担増が深刻化し、岩手県の沢内村での国民健保の老人10割給付の実施を契機に、各地で運動が高まり革新自治体の政策とも相まって老人医療の無料化制度が自治体に広がります。そしてついに国も1973年から老人医療が無料になります。この老人医療の無料化は、高齢期運動の輝かしい成果です。

 この根底には、先に述べた「高齢者中央集会」以降の粘り強い運動がありました。その運動が、大内兵衛、美濃部亮吉、成田知巳などの呼びかけで発足した「健康で安心できる老後をつくる大集会実行委員会」に引き継がれ、1971年に「第1回9.15高齢者大集会」が開催されます。この集会には全国から1万人が結集します。この集会はその後も引き継がれますが、総評の解散などもあり次第にその役割が不明確になります。

 しかし、第二臨調の答申を受け、政府の社会保障全般的な破壊がはじまります。そしてついに1983年に老人医療が有料化になります。

 さらに失業対策業、年金法、老人ホームの費用負担などが次々改悪され、新たな高齢者運動が求められるようになります。

 そして、1986年の老人保健法改悪を機に、33氏の運動家・研究者が高齢者国民大運動アピール「平和で豊かな明日をめざして」を発表、全国各地の民主団体や老人クラブや労働組合などがそれに賛同し、自覚的民主的な高齢者大会として1987年9月1日、2日に京都で第1回全国高齢者大会が開かれました。

高齢者大会の歴史

 第1回全国高齢者大会にはすべての都道府県から6,000人以上が参加しました。大会では、4本の大会スローガンが決定されます。

「ひとりぼっちの年寄りをなくそう!」
「高齢者いじめの政治をやめさせよう!」
「安心して暮らせる高齢期の保障を確立しよう!」
「核兵器をなくし平和な社会を子や孫に遺そう!」

 これらは、その後の高齢者大会に引き継がれる中心的なテーマとなります。

 第2回大会(福島)では、高齢者の要求とそれを国民や政府に宣言し運動の基本とすることをめざして「高齢者憲章」が決定されます。

 第3回大会(埼玉)の頃には、高齢者大会も定着し始め、日常の運動との連携も進みます。この大会には首都圏からたくさんの高齢者が参加し11,000名の大集会となりました。

 その後も高齢者大会は、各県持ち回りで開催され、それぞれ全国大会の開催を機にその県に高齢期運動連絡会の組織を結成したり、高齢期運動の飛躍の契機になったりしてきました。

 また高齢者の要求だけでなく国民的な要求運動を取り上げ、「学び」「実践を交流」する場として発展しています。

 大会の1日目は、情勢や運動の基礎、その時々の社会問題を学ぶ「基礎講座」と各地の経験を交流し、新たな運動の発展を図る「分科会」、その地域の文化や歴史を学ぶ「移動分科会」、交流の場としての「夜の企画」が開かれます。

 2日目は、全体会が開催され、全国方針の提起、文化交流、記念講演や各地の報告などが行われています。

高齢者大会の発展